LOGIN彼はゆっくりとした足取りで私へと歩み寄り、冷え切っていた私の両手を、自分の大きな手でふわりと包み込んだ。
彼の指先は、数時間前のような氷のような冷たさを失い、確かな人間の体温を取り戻している。 「……顔色、少し良くなったみたい」 私が安堵の息を吐き出しながら言うと、湊は微かに口角を上げ、私の手の甲を親指で優しく撫でた。 「ああ。随分と長い時間、暗闇の中で迷子になっていた気がするけれど。ようやく、出口の光が見えたよ」 その言葉の響きに、私はほんの少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。 出口の光。 それは、龍一郎さんたちを出し抜き、九龍の次期当主の座を死守するための、起死回生の策を見つけたということなのだろうか。 しかし、彼の纏う空気は、これから血みどろの権力闘争に身を投じる『修羅』のそれとは、あまりにもかけ離れていた。 「湊、どんな結論を出したの?」 私が真っ直ぐに見つめると、湊は私の手を包み込んだまま、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。 そして、静かな、しかし「お言葉ですが、西崎常務。現場の温度を軽んじている今の九龍こそが、顧客から見放されようとしている最大の原因です」 自分の声が、驚くほど冷静に、そして真っ直ぐに響いた。 役員たちの眉がピクリと跳ね上がり、薄笑いが一瞬にして消える。「現在、グループ全体のホテル稼働率は、龍一郎氏の逮捕報道以降、急激に落ち込んでいます。特に関東圏のフラッグシップホテルでは、ウェディングのキャンセルが相次いでいる。……皆さんは、そのキャンセル理由の文面を、ただの一文字でも精査しましたか?」 西崎常務が、脂汗の浮かんだ額を指先で拭いながら、苛立たしげに視線を逸らした。「……それは、ブランドイメージの一時的な失墜によるものだろう。時が経てば回復する」「違います。顧客が恐れているのは、イメージの低下ではなく、『誠実さの欠如』です。九龍のホテルで式を挙げることに憧れていた花嫁たちが、今、何に傷ついているか。……それは、自分たちが一生に一度の舞台を預ける場所が、内部抗争に明け暮れ、嘘で固められた人間たちによって運営されていたという事実そのものです」 手元のタブレットを操作し、背後の巨大なスクリーンへ映像を転送する。 そこには、昨夜までに独自に集計した、過去三ヶ月の顧客満足度の推移と、キャンセル後の流出先データ、そして顧客からの生々しいクレームの文面が分析図として表示されていた。「提案します。ホテルサービス、ブライダル事業、そして麗華さんが立ち上げたアパレル部門の三位一体となった『再生プロジェクト』です」 会議室の空気が、わずかに、しかし確実に動いた。「ホテルの宴会場をただ貸し出し、既存のプランを当てはめるだけの営業はもう古い。M&Aホールディングスが持つアパレル部門の独自ラインを、九龍の宿泊客限定のオーダーメイドサービスとして組み込みます。さらに、私が現場で培ってきたブライダルのノウハウを活かし、挙式前から後まで、顧客のライフスタイルに長期的に寄り添う『コンシェルジュ・サブスクリプション』を開始すべきです」「そんな手間のかかることを……。現場の
新調したばかりのチャコールグレーのジャケットに腕を通し、姿見の前で襟元を整える。 指先を滑らせるウールの生地は、驚くほど滑らかで、それでいて両肩に確かな重みを感じさせた。 九龍グループ本社ビルの最上階へと向かう専用エレベーター。密閉された箱の中は、微かな機械油の匂いと、無臭の消臭剤の香りが混ざり合っている。 液晶画面で明滅し、刻一刻と増えていく赤い数字を見つめながら、肺の奥までゆっくりと空気を吸い込み、細く長く吐き出す。 隣に立つ湊の、ぴしりと折り目のついたスラックスの裾が、視界の端で揺れた。 エレベーター特有の、わずかに内臓が浮き上がるような重力変化が収まり、ピン、という短い電子音が静寂を破る。「……準備はいいか」 低い、落ち着いた声。 視線を上げると、深い色の瞳がこちらを真っ直ぐに射抜いていた。「ええ。昨夜、麗華さんや詩織さんと何度もシミュレーションしたわ。頭の中には、現場のスタッフや顧客一人ひとりの顔が鮮明に浮かんでいるもの」 口角をわずかに上げると、湊の強張っていた頬の筋肉がふっと緩む。 重厚な金属の扉が左右に開くと、そこにはリノリウムの床を磨き上げた清掃用洗剤の匂いと、耳鳴りがするほどの張り詰めた沈黙が待ち構えていた。 ◇ 大会議室の中央に鎮座する、巨大なU字型のマホガニーのテーブル。 そこには、九龍グループの屋台骨を支える各部門のトップや、新体制で生き残った役員たちが、一分の隙もなく並んでいた。 扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、数十対の視線が一斉にこちらへと突き刺さる。 その多くには、隠しきれない困惑と、冷ややかな値踏みの色が混じっていた。 湊の婚約者。 世間を騒がせている逮捕劇の、いわば「おまけ」としてこの場に招かれただけの、ただの若い娘。 彼らの視線の温度と、椅子のきしむ音から、その本音が痛いほど伝わってくる。 湊は迷いのない足取りで上座へと向かい、用意された重厚な革張りの椅子を引くこともなく、立ったまま室内をゆっくりと見渡した。「…&hell
デスクの上のスタンドライトだけが、二人の手元を柔らかく照らし出していた。 残務処理を終え、パソコンをシャットダウンしようとマウスに手を伸ばした時。 背後から、上質なウールの感触と、大きな温もりが体をすっぽりと包み込んだ。 湊の腕が腰に回され、広い肩に背中を預ける形になる。 首筋に顔を埋められ、深く息を吸い込む音が聞こえた。「……少し、休みたくなった」 普段の隙のない姿からは想像もつかない、甘えるような弱音。「お疲れ様。本当に、よく頑張ってるわ」 回された腕に自分の手を重ね、その手の甲を親指でゆっくりと撫でる。 硬く強張っていた湊の筋肉が、少しずつ解れていくのがわかる。「……来週の温泉宿の手配、完璧に済んでいるぞ。誰の邪魔も入らない、露天風呂付きの離れだ」 首筋に唇が触れ、くすぐったい感覚が全身の毛穴を逆立てる。「ふふっ。九龍の当主様が、温泉の予約に全力を注いでいるなんて、役員たちが知ったら卒倒するわね」「構うものか。俺にとっての真の玉座は、君の隣にしかない」 湊の腕の力が強くなり、身体ごと反転させられる。 至近距離で交わる視線。 スタンドライトのオレンジ色の光が、湊の瞳の奥で小さく燃えているように見えた。「あの狭いアパートで、二人きりでこの会社を作った夜を、今でも鮮明に覚えている。……俺は、あの夜、君にすべてを救われたんだ」 湊の指先が、頬の輪郭をそっと、確かめるようになぞる。「九龍の当主になっても、俺の帰る場所はここだ。君と作り上げた、この『M&A』だ」「……私もよ、湊」 そっと背伸びをして、その温かい唇に自分の唇を重ねる。 ほんの一瞬の触れ合い。 しかし、離れようとした身体を引き寄せるように、湊の大きな手が後頭部をしっかりとホールドした。「……逃がさない」 低く掠れた声と共に、今度は深く、息を奪うような熱いキスが降
冷酷なCEOとしての顔が微かに覗く。 だが、組まれた腕が解かれ、その視線が真っ直ぐにこちらへと向けられた時、湊の瞳の奥にあったのは、計算でも合理性でもない、どこまでも純粋な熱だった。「……ここは、俺たちがゼロから立ち上げた場所だ。『Minato & Akari』。この名前を、九龍の巨大な影の中に塗り潰したくはない」 湊の声が、胸の奥を静かに、けれど強く震わせる。 あの古くて狭いアパートの一室。 九龍の権力も、財産も、すべてを失った湊が、小さなちゃぶ台の上でノートパソコンを開き、夜通し語り合った日々。 何もないところから、互いへの信頼だけを武器に立ち上げた、たった一つの会社。「それに、この会社は血の繋がりではなく、実力と信頼だけで結ばれた人間が集まる場所だ。九龍の古い因習とは、明確に切り離しておきたい」「ちょっと! M&Aがなくなるなんて最悪の噂、本気にして損したじゃないの!」 突然、オフィスの扉が荒々しく開かれ、大量の生地のサンプルを抱えた麗華がズカズカと足音を立てて入ってきた。 髪は無造作に束ねられ、指先にはミシンの針で刺したのか、いくつもの小さな絆創膏が貼られている。かつてのブランド志向の塊だった令嬢の姿はそこにはなく、服作りへの執念に燃える職人の顔があった。「私がせっかくアパレル部門のチーフデザイナーとして、寝る間も惜しんでこのブランドを軌道に乗せてきたのに。九龍の古臭い親父どもの傘下に入るなんて、絶対にごめんよ。私の美学に反するわ!」 山ほどの生地を空いているデスクにドサッと降ろし、両手を腰に当てて湊を睨みつける。 ツンケンした態度の裏側に透けて見える、この場所への強い愛着。「麗華さん、大丈夫よ。湊が、この会社をそのまま残すって決めてくれたから」 微笑みかけると、麗華はフンと鼻を鳴らし、少しだけバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。「……当然ね。私という天才デザイナーを手放すなんて、経営者として愚の骨頂よ。せいぜい、私に高い給料を払い続けるために、身を粉にして働きなさい」「相変わ
「……三日前の何気ない一言を覚えてて、わざわざ激務の合間に買いに行かせる九龍の当主。重い、重すぎるよ、愛が」「うるさいぞ、征司。君が持ってきたその砂糖の塊は、詩織さんにすべて献上しろ」「ええっ、俺の分は!?」 詩織が「ごちそうさま」と一言だけ告げて、箱ごとドーナツを自分のデスクへと引き寄せる。 湊はそのままデスクの横に立ち、手にした紙袋をそっと置いてから、モニターの画面を覗き込んできた。 肩が触れそうな距離。 冷たい冬の外気を吸い込んだ上質なウールの匂いと、湊自身の清潔な体温が混ざり合った香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。「……麗華の新作か。相変わらず、妥協のない仕事をしているな」「ええ。生地の仕入れから縫製まで、すべて彼女が工場に張り付いて確認しているの。前の彼女からは想像もつかないくらい、泥臭く働いているわ」 湊のネクタイが、身を乗り出した拍子にデスクの縁に触れ、微かな摩擦音を立てる。「無理しないで。来週の温泉旅行のために、スケジュールを極限まで詰め込んでいるんでしょう?」 見上げると、深い色の瞳が至近距離でこちらを見つめ返してきた。「……君との約束は、九龍のどんな決裁よりも最優先事項だ。それに、君の顔を見ないと、会議中の殺伐とした空気に当てられて窒息しそうになる」 大真面目な顔で発せられる甘い言葉に、心臓の奥がトクンと大きく跳ねる。「はいはい、ごちそうさま。そこ、神聖なオフィスで九龍家の秘事を繰り広げないでちょうだい」 詩織が、ドーナツを齧りながら冷ややかな視線を送ってくる。 湊は咳払いを一つして姿勢を正すと、持っていた革製のブリーフケースから一部のクリアファイルを取り出し、詩織のデスクへと差し出した。「本題に入ろう。今日の役員会議で出た、このM&Aホールディングスの吸収合併案だ」 その言葉に、オフィスの空気が微かに張り詰める。 征司が、ドーナツの粉を払う手を止めた。「……やっぱり、出たのか。老害連中か
キーボードのプラスチックを叩く乾いた音が、少し手狭なオフィスに軽快なリズムを刻んでいる。 エスプレッソマシンから立ち昇る深く焙煎されたコーヒーの香りと、暖房の効いた少し乾燥した空気が、ガラスのパーテーションで仕切られた空間を満たしていた。 デスクの上のモニターには、麗華が新しく立ち上げたアパレルブランドの新作カタログのデータが映し出されている。シルクの光沢や刺繍の細部を確認するため、マウスのホイールを回して画像を拡大していく。 九龍本社の、音を立てることすらためらわれるような重厚な静寂とは対極にある、活気と熱を帯びた空気。 ここ、M&Aホールディングスのオフィスには、血の繋がりや古い因習といったしがらみは一切存在しない。「差し入れのお通りだ! 詩織の機嫌を直すための最高級の生贄を持ってきたぞ!」 フロアの入り口から、両手に有名ベーカリーの紙箱を掲げた征司が、満面の笑みで飛び込んできた。 ダークスーツのボタンを外し、ネクタイを緩めたその姿は、相変わらずどこか隙があるようでいて、営業先では誰もが心を許してしまう特有の愛嬌を放っている。「誰の機嫌が悪いって?」 背後から、分厚い契約書の束を抱えた詩織が音もなく近づき、征司の背中をバインダーの角で軽く小突いた。「痛っ! ……いや、九龍本社のコンプライアンス改定と、こっちの法務チェックの二足のわらじで、疲労が溜まっているんじゃないかと心配しただけで……」「なら、無駄口を叩いてないでその箱を開けなさい。糖分が切れて頭が回らないのよ」 詩織は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げながら、デスクのパイプ椅子に腰を下ろした。 箱が開けられると、アイシングがたっぷりとかかったドーナツの強烈に甘い匂いが、コーヒーの香りを瞬時に上書きしていく。「朱里も食べるだろ? ほら、一番甘そうなやつ」 征司がナプキンで包んだドーナツを差し出してくる。 受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後のガラス扉が静かに開く音がした。「……業務時間中に、随分と和やかな雰囲
玄関で出迎えたのは、いつもの女中頭だった。 そして、その奥から、氷の上を滑るような音のない足取りで現れた人物。 継母、九龍志保。「……おかえりなさいませ、湊様。茅野様」 感情の読めない能面のような表情。 けれど、その視線が私に向けられた時、一瞬だけピクリと眉が動いた気がした。 以前のような、蔑むような冷たさではない。けれど、決して歓迎もしていない、何かを探るような深い色の目。「華枝様がお待ちです。……書斎へ」「ああ」 湊は志
あの絶対的な自信に満ちたCEOが、初めて見せる弱音。 その背中が、私の知っている彼よりもずっと小さく、脆く見えた。 志保はもはやパニックで役に立たない。総支配人もおろおろするばかり。 麗華は高みの見物を決め込んでいる。 誰も、動けない。 ――カッ、と。 私の腹の底で、熱い火種が爆ぜた。 冗談じゃない。 こんな、しょうもない悪意に負けてたまるか。 私の雇い主を、私の「婚約者」を、こんな形で笑い者になんてさせてたまるか! これは結婚式じゃない。 でも、状況は同
「事故だと……!? 警察には確認したのか!」「それが、現場周辺が大渋滞で、誰も近づけない状況らしく……連絡も途絶えてしまって……」 総支配人の声が裏返る。 事故? メインシェフが来ない? 食材も届かない? 血の気が引いた。 今夜のパーティーの目玉は、剛造も言っていた通り、三つ星シェフによる特別コース料理だ。 招待客の多くは、それを楽しみに来ている。 それが、「出せません」で済むはずがな
会場の喧騒の中、呆然と立ち尽くしている二つの影があった。 九龍剛造と、綾辻麗華だ。 剛造はグラスを持ったまま彫像のように固まり、麗華に至っては、能面のように表情を失っている。 彼女たちが描いた「九龍家の没落」というシナリオは、私の「宝石箱」によって、跡形もなく粉砕されたのだ。 ざまあみろ。 心の中で舌を出してやる。 その時。 人垣がさざ波のように割れ、一人の人物がこちらへ近づいてくるのが見えた。 コツ、コツ、と杖をつく音が、不思議なほど鮮明に響く。 九龍華枝だ。 小柄